イメージの見える見えない

夢の話題で話をしているときにイメージのことを思い出したので記録。

 

10年以上前の事。
イメージが見える人とイメージが見えない人が居るという事について色んな人に見解を聞いてまわり、確実に違いがあることと、自分はイメージが見えない側であることを実感しました。

イメージが見える人は見えることが当然なので見えない人の考えや気持ちがわからず想定外の返答が来ることも多く、見えない人が見えるふりをする嘘はあまりにも想定内ですぐに分かるものでした。(絵を描く人描かない人に関わらず情報を集めました。)

絵を描くという点でのイメージの有無。
イメージが見える人は、見たままに描く模写力のような能力が必要になります。イメージが見えていても絵を描く訓練をしないと見えているイメージを描き出すことができません。写真や目の前の風景を見たまま描ける能力がなければ、イメージも忠実に形にできないということです。見えることが当然の人にとって絵が下手であることはその出力の能力が無いのだとみなされ、見て描けばいいだけのものを描けるようになろうとしない人は怠惰であると思われたりもします。
イメージが見えない人は見えない度合いに差はあるものの、訓練法や見えないことに対する意識の無さから、イメージが見えなくてもなんとかなるという方向に向かっていることが多いように感じます。結果としてイメージが見えないままになるのでイメージが見える人の感覚が解りません。
なぜそんな話をするかというと、イメージの見えなかった自分がイメージを見るに至ったという経緯があるからです。そして、イメージが見えない人は見えることに関して恐怖や不信感を持っていることも多いのか、やれ幻覚だ嘘つきだといった反応が少なくありません。

イメージと概念。
自分の言うイメージというものが人と違っているので、実際の定義とは別にここでの捉え方を予め分けておきます。
ここで語るイメージというのは言い換えれば脳が視覚野を通して見る映像の事をさします。そして、実際の正確な機能はどうあれ夢でみる映像もイメージとみなしています。目で見た映像も夢で見る映像も視覚野を通した電気的信号と便宜上考えてみるということです。
ここで語る概念というのは、イメージと混同して言われがちな、イメージの見えていない設定的な事象を概念として分けています。
茶髪でロングヘアーのメガネをかけた女子高生が制服を着ているというものをイメージしようとしたとして、イメージが見える人は目の前にその女子高生が写し撮るだけでいい完全な状態で見えていますが、イメージが見えない人は概念を並べてイメージを見えているつもりで居たりします。
そのイメージが見えてない概念はぼんやりとしていてパーツごとに次元が離れていて同じ所に像を結んでいません。イメージが見えない人はこの概念を、アタリや迷い線を手がかりに彫刻を削り出すように絵を描き進める過酷な作業にもかかわらずそれが当然であるため迷わず行っていたりしますが、イメージが見える人がもしその感覚を感じることができたら両目や利き腕を失ったように苦痛でしょう。見える人に見えない人の話をしても全く信じてもらえません。見えない人はイメージが見えるようになればその違いを実感します。自分はまさに全くイメージが見えない人間でした。
大雑把に分けると、アタリを描く人はイメージが見えない側のようです。そしてイメージが見えない人の方が歪みを気にする傾向が強いように感じました。

イメージの入り口。
当時いろいろ調べて試したうち、最初に大きな手がかりとなったのが瞑想です。瞑想というとやれ宗教だのビジネスだのとすぐに拒否反応を示し閉め出されがちですが、人体の構造上実際に影響が出るものとして経験して知らなければ解るものも解りません。なんでも否定して現在の自分をこそ最良の選択結果であると認めようとする自己肯定は成長も破壊も止めてしまいます。

瞑想病。
禅病という言葉があるので危険に対しては面倒くさがらずにしっかり調べて欲しいのですが、様々な瞑想法を試しているうちに初めて夢と同様のイメージを意識がある状態で見ることができました。明晰夢(夢の中でそれが夢であると認識している状態の夢)と同様の状態であると感じたので、いつでも作業に戻れる状態で好きな時に明晰夢を見ることができるという一見便利そうな状態です。その(当時感じた)すばらしさに、会社勤めの昼休みに瞑想でイメージを見るということを繰り返してしまったことがありました。

瞑想によるイメージの不便さ。
瞑想から入る明晰夢のようなものは、夢と同様コントロールができたりできなかったりして不安定でした。こうなったら嫌だな、と思ったらその嫌な方向に流れてしまったりするところも夢と同様で、見たいものが見れるわけではないのは不便です。夢でしか思いつかないような発想という偶然に頼るという使い方はできるかもしれませんが、白昼夢を求めるようにはまり込むのは危険です。漫画に出てくるような”起きれなくなったら?”というありがちな疑問も、夢の中で実感すると言い表せないような恐怖になったりします。
イメージを見たとしてもそれを記憶して描き出すというのは困難です。夢を覚えてない人、夢を見ているときの映像を実際には見ていないが見ていると勘違いしていると考えている人には夢の映像を見ていること自体を否定された事もありました。曰く、”映像が見えていたなら描けるはずだ、描けないだろう?”と。しかし、それはつまり”隣の部屋で昨日見た彫刻を、何も見ずに記憶だけで見たままに描ける能力がある”というような、記憶から模写できる能力がある前提がないと成立しません。そしてそんな能力があれば苦労していません。
結局、目を開けていると瞑想ができなかったため白い紙を前にしてはイメージを見ることができず、瞑想自体に時間と準備が必要でめんどうになりやめてしまいました。集中力を得るためにイメージを見ない瞑想を用いるのは今でも便利です。

イメージの壁。
今でもイメージはほぼ見えないのですが、昔とは明らかにちがうというほどにはイメージを見ることができます。普段は概念に毛が生えた程度の補助的な映像片ですがしっかりと同じ次元に像を結んでいて、ぼんやりとしたものから色もディテールもはっきりしたものまで不安定に現れます。
説明するのが難しいのですが、線画を描く時にも完成した線画が見えるのでなく、線のない実写のような立体の色の像を見ています。とても視野が狭く、覗き穴を通すような範囲しか見えません。
真っ白よりは、何か取っ掛かりになるようなノイズがある方がイメージが出やすいのでわざと先にグシャグシャと何か描いたりします。うまくいくと便利なイメージが見え、うまくいかないとただのノイズのまま何も見えません。一瞬だけ広範囲に色付きのイメージを見ることもあります。
イメージが見えている時、目の焦点は描画面に合っていますが、ピントは描画面に合っていません。画面との前後距離や距離感を意識すると逆に画面しか見えなくなりイメージが見えなくなります。独自のイメージを見る描き方を続けると視力が落ちるのが悩みの種です。
現状、イメージの見える視野がせまく、大きい紙にイメージを描き出すのは無理なので、ラフや下書きはデジタル上で小さい範囲に描いたものを引き伸ばしてディテールを描き込んでいます。ディテールを足していく間も狭い範囲でイメージを見たり見えなかったりしています。
顔を描く時にはイメージが見えなさすぎて一番困ります。自分にはディフォルメされたイメージが出づらいようで、実写寄りのイメージのほうが出やすいようです。

 

またなにか思い出したら追記します。